マオゼンスキー

tk33082005-12-19

朝日杯3歳S(現・朝日杯フューチュリティS)は、ほぼ馬なりで走って1分34秒4のレコード。「第3コーナーを過ぎたら、後ろの馬の足音が聞こえなくなった」と、中野渡清一騎手がレース後のインタビューで脱帽したように、ぶっちぎりの圧勝だった。
 もし全力で走っていたら、どれだけのタイムが出ていただろう。しかし、この馬なりで樹立したレコードですら、以後14年も破られなかった。
 英三冠馬ニジンスキー持込馬として生まれたマルゼンスキー。だが、残念なことに、当時の持込馬外国産馬の扱いを受けていた。
 このため同世代の馬を子ども扱いし、抜けた強さを誇りながら、クラシックに出走できなかった。
「賞金なんか貰わなくていい。28頭立ての大外枠でもいい。邪魔なんかしない。頼むから出してくれ。そうすれば、どれが日本一かわかる」中野渡清一騎手がそう嘆いた言葉を、マスコミは大きく取り上げ、ファンは昭和52(1977)年の日本ダービーを“敗者復活戦”と酷評する始末だった。

JRA50周年記念サイト「時代を駆け抜けた名馬たち」
              『マルゼンスキー 語り継ごう、おまえの強さを』より引用


念のため「ダービー=トリノ五輪」です。