マオゼンスキー

朝日杯3歳S(現・朝日杯フューチュリティS)は、ほぼ馬なりで走って1分34秒4のレコード。「第3コーナーを過ぎたら、後ろの馬の足音が聞こえなくなった」と、中野渡清一騎手がレース後のインタビューで脱帽したように、ぶっちぎりの圧勝だった。もし全力で走っていたら、どれだけのタイムが出ていただろう。しかし、この馬なりで樹立したレコードですら、以後14年も破られなかった。英三冠馬ニジンスキー持込馬として生まれたマルゼンスキー。だが、残念なことに、当時の持込馬外国産馬の扱いを受けていた。このため同世代の馬を子ども扱いし、抜けた強さを誇りながら、クラシックに出走できなかった。「賞金なんか貰わなくていい。28頭立ての大外枠でもいい。邪魔なんかしない。頼むから出してくれ。そうすれば、どれが日本一かわかる」中野渡清一騎手がそう嘆いた言葉を、マスコミは大きく取り上げ、ファンは昭和52(1977)年の日本ダービーを“敗者復活戦”と酷評する始末だった。日本短波賞(現・ラジオたんぱ賞)でその鬱憤を晴らし、有馬記念をめざしたマルゼンスキー。だが、不運にも脚部不安が悪化。持てる本当の能力をベールに包んだまま、8戦不敗で引退となった。それでも8戦のうち大差勝ちが2つ。これをタイムから馬身に換算すると、後続につけた着差の合計は、61馬身にもなる。強すぎた。次元が違った。
「さようなら、マルゼンスキー。語り継ごう、おまえの強さを」
 昭和53(1978)年1月15日、引退式当日の横断幕にはそう書かれてあった。たしかに、この馬の強さは、伝説となって今も語り継がれている。

http://www.jra.go.jp/50th/html/50horse/27.html

ふと気づいたらこのブログをもう1000日以上も書いているのです。で、今まで書いたエントリのうちいちばんお気に入りは何かなと思って探したのがこれ。かつてダービーに出れなかったマルゼンスキートリノオリンピックに出れなかった真央ちゃんをダブらせて書きました。元ネタはここです。