返信を兼ねて

tk33082010-01-25

高2のときの担任が良いセンセで「この人の歩んだ道を歩もう」と思い、それまで文系だったのに理系に転向しました。そのセンセは京大理学部出身で自然と私の志望も京大理学部になりました。しかし力が足りず、現役の時は不合格。他に受けた私立もすべて不合格でした。浪人生活は宅浪でして夏に二条城横の駿台へ夏期講習受けに行ったりしましたが、イマイチ力がつきませんでした。
結局島根大学理学部というところに進学したのですが、そこを選んだのにはワケがありました。【他大学受験許可書】というモノを出してくれるというのです。やっぱり京大へ行きたい、という思いもありましたし少し前から「人の役に立つ仕事に就きたい」という思いが強くなり、医学部受験も考えていたのです。そのためその頃はしりの「仮面浪人」しようと思ったのです。
しかし入学時のオリエンテーションで【他大学受験許可書】は農学部しか出してくれないことが判明し愕然としました。どうしようかと迷ったのですが、ダラダラと大学の授業には出ず図書館にこもって受験勉強していました。余談ですが、この頃大数の学コンで「実力十分」を取りました。
ある日指導教官(みたいな人)に呼ばれ「どうするのかはっきりせい」と言われ、いったん大阪に帰って両親に大学やめてもういちど受験勉強したい、ということを話ししましたが反対され、断念。迷惑ばっかりかけていた両親の言うことには逆らえません。
心機一転大学の授業に出始めたモノの、まったく分からず。1年時は数えるほどしか単位を取れませんでした。2年・3年で何とか挽回し4年で卒業できそうになった頃からまた「人の役に立つ仕事に就きたい」という思いが強くなり青年海外協力隊に入ることを考えました。そうしてまた両親に相談したら反対されました。「外国なんぞに行かず日本で就職して欲しい」とのことでした。
そうしたら残っているのは何だろう?と考えた結果がセンセでした。「明るい次代の日本を担ってもらうこどもたちを育てよう」なんてことを思ってセンセになったわけです。たまたま教職課程を取っていたし、センセならやりがいがあるかななんて甘いことを考えて26年前に大阪府教員に採用されたわけです。
明確に「教師になろう」と考えだしたのは大学3年の頃でしょうか。あれからもう30年近く経ちました。また明日も「明るい次代の日本」を担ってもらう生徒らと対決です。