泣けるなあ

福永洋一氏が故郷高知競馬でプレゼンター
“天才”福永洋一氏(61)が、生まれ故郷の高知で故郷のファンを前に声を震わせ、喜びの雄たけびをあげた。79年の落馬事故以来、31年ぶりに公の場へ姿を見せた洋一氏が、自身の功績をたたえて設立された高知競馬の「第1回福永洋一記念」(重賞、ダート1600メートル)でプレゼンターを務めた。息子の祐一騎手(31)は父の偉大さを再確認。数々の伝説を残した競馬界の大スター登場に、全国から多くのファンが詰めかけた。
自身の名を冠した記念すべき「第1回福永洋一記念」に、高知が生んだ天才騎手がプレゼンターとして、31年ぶりに公の場へ姿を見せた。「おめでとう!」「お帰り!」。洋一氏がステージに登場すると、スタンドから渦のような大歓声と拍手がわき起こる。車いすの後ろで誇らしげに立つ息子・祐一の手を握りながら、洋一氏は興奮のあまり喜びの雄たけびをあげた。
79年3月4日の毎日杯マリージョーイに騎乗した福永洋一氏は先行馬の落馬に巻き込まれ、自らも激しく馬場にたたきつけられた。生死をさまよう脳挫傷と診断され、それ以降はリハビリの毎日を送ってきた。今でも言葉は嗚咽(おえつ)程度で聞き取れず、体も思うように動かせない。しかし、現役時に多くの栄華を誇った名手は、白髪交じりの61歳となったが“洋一スマイル”と称された目じりの下がった独特の笑顔は今も同じだ。
09年夏に息子の祐一が提案して実現したレース。開催の一報を聞いた50〜60代の競馬ファンから、高知競馬場に問い合わせが殺到。藤沢和師からも「何かの力になれるなら」と副賞の記念品の提供があった。「同世代の方々が関心を示してくれ、競馬場まで足を運んでくださり、父が1番喜んでいます」と祐一。「今日の父は本当に格好良かった。武豊さんにあこがれて入ったはずの競馬界だけど、オレの中のヒーローは親父だったと再確認できた」。そう言うと胸を詰まらせ、涙をぬぐった。
この先2年、3年…洋一氏は体の許す限り、プレゼンターを務める。今後は地方・中央の騎手交流競走になる可能性もあり、そうなれば祐一が父から直接、祝福される夢のようなシーンが実現するかもしれない。「どうやろ、親父は自分で賞状とか手渡せんし…」とほほえむ祐一。ステージから降りる時、ファンから「また戻って来いよ!」の声が飛んだ。洋一氏は、幸せで胸いっぱいの表情を浮かべて、たどたどしく左手を挙げて応えた。

http://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20100511-628186.html

事故から31年…天才騎手に大歓声
伝説の天才騎手が生まれ故郷・高知に帰ってきた。10日、高知競馬「夜さ恋ナイター」9R・第1回福永洋一記念に福永洋一さん(61)が、長男でJRA騎手の祐一(33)とともに表彰プレゼンターとして来場。1979年3月の落馬事故から31年ぶり、公の場では初めての親子2ショットとなった。レースは赤岡騎乗のフサイチバルドルが勝った。
すっかり日が沈んだ高知競馬場のカクテル光線が地元出身のスーパージョッキーを優しく照らしていた。「夜さ恋ナイター」9Rに組まれた福永洋一記念。その記念すべき第1回に洋一さんが表彰プレゼンターとして長男・祐一とともにウイナーズサークルに登場すると「洋一」「待ってたぞ」と歓声が沸き、大きな拍手に包まれた。31年前の落馬事故以来、親子そろってファンの前に姿を現すのは初めてのことだ。車椅子に乗った洋一さんはファンの声援に声を上げ、左手を挙げて応えた。父に寄り添うようにあいさつに立った祐一は途中で感極まった。
「自然と拍手で迎えていただいて、ジンと来ちゃいました。こみ上げるものがありましたね。父も興奮していたし、久しぶりに高知に来て喜んでいました」
昨年8月10日の「夜さ恋ナイター」応援イベントがきっかけとなった。武豊とともにトークショーで来場した祐一が提案。高知県競馬組合が快く受け入れた。1着賞金50万円など賞典奨励費は高知競馬が負担し、通常の協賛競走と同じように祐一が協賛金(主に広報費)と副賞品及びトロフィーを提供した。
祐一自身、高知に来て気付いたことがあった。
「オヤジが引退してもう30年近くなるのに、たくさんの人が覚えてくれているのがうれしかったです。自分はユタカさん(武豊)の活躍にあこがれて騎手になったつもりでも、自分の中のヒーローはオヤジだったんだって初めて思いました。カッコ良かったです」
歴史的な1日。今年は地元馬のみの開催だったが、高知競馬は「将来的には(JRA所属馬も出走可能な)交流重賞にできれば」とのプランを描いている。「どんな形でもいいので、このレースが続いてほしいし、父が健康ならずっと一緒に高知に来たい」と祐一。来年、再来年、そしてまた翌年…と発展していくであろう、このメモリアルレース。その第一歩は確かに刻まれた。

http://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2010/05/11/01.html

福永洋一氏が競馬場に!プレゼンターで登場「第1回福永洋一記念」(10日、高知)
“伝説の天才ジョッキー”が故郷の競馬場でよみがえる。レース後に高知県出身の福永洋一氏(61)とJRAの騎手でもある祐一(33)が父子そろってプレゼンターを務めた。洋一氏が公の場に姿を見せるのは79年の落馬事故以来、初めてのこと。駆けつけた多くのファンも声援と拍手で歓迎した。
土佐の地が感動に包まれた。“伝説の天才ジョッキー”福永洋一氏が久しぶりに公の場に姿を現し、長男の祐一とともにレース後のプレゼンターを務めた。
「生まれ育った高知はおやじにとって特別な場所。その名前がついた冠レースをできたら」。09年8月、高知競馬場で行われたトークショーで、氏の長男でJRAの騎手でもある祐一の言葉がきっかけだった。そしてその9カ月後、協賛金100万円を提供することで夢が実現した。
福永氏の功績は今も色あせていない。デビュー3年目の70年に初の全国リーディングジョッキーを獲得してから、9年連続で頂点に君臨し続けた。武豊が00年にタイに持ち込んだが、この記録はまだ破られていない。
しかし、79年3月4日、レース中の落馬により意識不明の重体に。一命は取り留めたが、脳障害が残り、天才が歩んだ栄光の軌跡は断たれた。
事故当時、2歳だった祐一は96年にジョッキーデビュー。08年9月には983勝目を挙げ、父の記録に並んだ。「福永洋一の息子でなければ、騎手の道を選んでいなかった。その背中をずっと追い掛けてきましたが、乗れば乗るほどおやじの存在は遠くなる。一生超えられない」と偉大な父を尊敬してやまない。
折からの不況で、地方競馬の存続が危機に立たされている。この高知競馬も例外ではない。そんな状況での今大会。「定着してファンがどっと来てくれたらうれしい。その方がおやじも喜ぶ」。地方競馬の活性化にひと肌脱いだ福永親子。高知競馬に“伝説の天才ジョッキー”の名が永遠に刻まれる。

http://www.daily.co.jp/horse/2010/05/11/0002967951.shtml

「元祖・天才」福永洋一氏31年ぶり公の場
「第1回福永洋一記念」が10日、ナイター開催の高知競馬場で行われ、中央競馬の伝説のジョッキーで高知出身の福永洋一さん(61)が、長男の福永祐一騎手(33)と同レースのプレゼンターを務めた。79(昭和54)年の毎日杯での落馬負傷が原因で引退して以来、洋一さんがファンの前に現れたのは初めて。
落馬事故から31年。「お帰り!」。温かい声援と大きな拍手に包まれて伝説のジョッキーが帰ってきた。現役時代に『天才』と称された福永洋一さんが、長男の祐一騎手に付き添われ「第1回福永洋一記念」のプレゼンターを務めた。
「縁の深い高知でレースができて、父も喜んでいます。たくさんの方が拍手で迎えてくれましたので…」
意思の疎通がスムーズでない父に代わりインタビューを受けたユーイチは、感極まって声を詰まらせた。落馬事故後、洋一さんがファンの前に姿を見せるのは初めてとあって、入場者数は1263人と普段の約2倍。車いすに乗ってファンと握手。何度も手をあげて、「ありがとう」というように大きな声を発した。
高知は洋一さんが中学時代まで過ごした地。96年の全日本新人王争覇戦に出場したユーイチを応援するため同競馬場を訪れて以来、14年ぶりの里帰りとなった。
同期に岡部幸雄氏、柴田政人調教師らがいるハイレベルの世代。その中でも突出した成績を残し、70年から9年連続でリーディングジョッキーに輝いた。だが、79年の毎日杯で落馬。一命を取り留めたものの、脳挫傷などの負傷のため引退を余儀なくされた。言葉を理解するまで回復して、現在は自宅で訪問介護を受けるなどして療養中。数年前に糖尿病を患って食事制限をしているため、体重は約50キロと現役時代と変わらない。
昨夏、同競馬場のイベントに訪れたとき、レースの創設を提案したユーイチにとって「オヤジがいなければ騎手になっていない」という父の存在は特別だ。「今回、自分の中のヒーローがオヤジだったと初めて思いました。格好よかったですよ」。『元祖・天才』が31年のときを経て、息子とともに高知競馬場で新たな1ページを刻んだ。

http://www.sanspo.com/keiba/news/100511/kba1005110434003-n1.htm


こうやって2人並んだところを見ると、ユーイチくんは口元なんかお父さんそっくりですな。