20年以上前に書いたモノ

あとがき周辺から推測すると泉尾40期が3年の2月に書いたもののようですが誰に何のために書いたものかは不明。
途中実在する中学校名が出てきます。アルファベットに変えても良かったのですが、何というか当時の雰囲気を感じてほしくてそのままにしておきます。
随所に見られる「いきり」は若気の至りとお許しください(笑)。

「1年担任日記」
                  −−−−新しく担任となる人のために(清見によるフィクション)


3月20日
今日、合格発表。午後は体育館で合格者説明会。
入試の受付や、試験の時は感じなかったが妙に虚ろな目をした子が多い。
説明会に筆記用具を持ってきていない子がたくさんいたため走り回る。
説明会が終わってから、いきおいでクラス分け。
担任するクラスは音美書選択者が入り乱れたクラスで男子が23人、女子が25人という編成。出身中学は堀江と市岡東、それに大正北、大正中央が割とかたまっており少し不安になる。
名列表を作り、担任氏名を書き入れたとき「また嵐の3年間が始まるな。」と思った。
名列表を2回縮小コピーして当面の提出物のチェックなどに使うことにする。クラス分け終了は午後9:30。


3月25日
今日、心臓検診。クラスの連中の顔をはじめて見たが、男子にひとりAというややこしそうな堀江出身の子、女子では髪の毛が茶色いB、C、Dという子がいた。この3人は3月20日の頭髪チェックに引っかかっていそうだ。そのほかの連中も「中学時代はかなりやんちゃしてました。」と顔に書いてある子ばかり。
前途多難を感じさせてくれる。
自分がこのクラスの担任であることを宣言しておいた。


4月8日
いよいよ入学式。
やはり、B、C、Dの3人が頭髪チェックに引っかかっていた。黒く染め直してくるように指示されていたにもかかわらず、まだ茶色い。再度指示する。
また、例のAが入学式にいきなり遅刻してきた。早速体育館のうしろで説教。
入学式後のHRでは自己紹介をしたり明日のことを連絡しているうちに保護者がどやどやと教室の後ろに入ってきた。
昨日から何を話そうかと迷っていたのだが・・・。

「学校に来ている間は自分がお子さんたちの面倒は責任を持ってみさせてもらう。だけども学校を一度出てしまえば自分はどうしようもない。だから、保護者の方たちもお子さんたちに有意義な高校生活を送ってもらいたいと思っているなら、彼らの行動をしっかり把握しておいて欲しいし、毎朝ちゃんと学校へ送り出してくれ。」

という風なことを言っておいた。
提出物は今日でかなり集まった。「生徒手帳」「誓約書」「学校安全会入会書」など未提出者は10人前後である。明日忘れたら取りに帰らすと宣言しておく。
ぞうきんをひとり1枚ずつ持ってくるようにと連絡するのを忘れた。明日言おう。


4月9日
今日午前はずっと体育館でオリエンテーション。午後は体育館で対面式と離任式。
提出物だが、忘れた5人を取りに帰らせたのだが、3人は持って来たが2人持って来ず。5:00までと時間を切っておいたので5:10に電話すると家の人が出て「まだ帰ってきていない。」とのことだった。事情を説明して帰り次第電話させるよう頼む。
さっき2人から電話があり、約束を守ることの大事さなどを説教。罰として明日朝8:20までに職員室に持ってくるよう指示。


4月10日
いよいよ授業開始。さすがにまだ静かである。
今日のHRで班分けをした。班を6つ作り、各曜日の掃除を割り当てる。
班分けが終わって10分ほど余ったので、議長、副議長、運動委員を決めておく。
立候補を募っても手を上げる者などなし。仕方がないので出席番号トップの者を議長、副議長にし、ラストの者を運動委員とする。
4月中はこのまま行き、5月くらいに選挙で正式に決めよう。
今日でなんとかクラスの体裁がついた。
今日やっとぞうきんのことを連絡した。これはぼちぼち集めよう。


4月11日
朝、8:20ごろ職員室で授業の準備をしているとEという男子の母から電話があり、「腹痛のため1度病院へ行ってから登校する。」とのこと。
病院の診察開始が9:00のため、今から順番待ちすれば10:30には登校できるだろうとのことなので、生指に3限の中ごろに遅刻して登校するだろうと連絡しておく。
2限終了後出席簿を見ると、Eはやはりまだ登校していない。それとは別にAに欠課がついている。担当の先生に確認すると、確かにいなかったとのことなので家に電話してみるが誰もでない。
3限終了後再度出席簿を見るとまだAとEに欠課がついている。
今度はEの家に電話してみる。 母が出て、腹痛がおさまらず、帰宅して寝ているとのこと。そういう場合は必ず学校に連絡するようにと母親に釘をさしておく。
4限終了後しつこく出席簿を見る。Aに遅刻がついている。
35分に放送で呼び出すが来ない。40分に再度放送するが来ない。45分教室へ行きAを捜すがいない。食堂へ行ってやっと捕まえる。
「熱があったので家で寝ていて遅れた。電話は寝ていたので気づかなかった。」とのことだったが、ふと「アプリコットでも寄ってたんちゃうんか?」と軽い感じで言った言葉に顔を引きつらせていたのが気になった。
しかし、その場はそれ以上追求せず、遅刻する場合はちゃんと学校に連絡するようにと指示して終わる。


4月12日
今日初めて掃除のさぼりが出た。
毎日終礼で「今日の教室掃除は何班、メンバーはだれだれ。階段掃除は何班、メンバーはだれだれ。」と連絡し、教室掃除の班の子たちと一緒に教室の掃除をしていたのだが、今日ひとりFという教室掃除の子がさぼって帰ってしまった。
4:30ごろ家に電話してみると、家の人が出て「まだ戻っていない。」とのこと。後刻また電話すると言っておく。
6:00に電話すると本人が戻っており電話口に出てくる。
「うっかりしてました。」と素直なのでほっとする。
掃除をさぼったらどうする、ということを言っていなかったので、「少しあぶないかな?反撃してくるかな?」という気もしたのだが、明日朝8:20に登校して職員室で話をすることにする。
明日の終礼で話をしておこう。
掃除はさぼったら次の日ひとりでやる。くらいで行こう。


4月13日
今日から面談開始。
手始めに男子3人を片付けたが、その中にGという大正北出身の子がいたのだが、中学時代はかなりなもので補導歴14、5回。大正警察2階の道場で投げ飛ばされたこと数知れずとのことだった。
面談は主に世間話から入って、相手がリラックスしてきたあたりから家の事情をさりげなく聞き出す、といういつものパターン。
以前は「家ではお父さん、お母さんとよう話するか?」というイントロで入っていったのだが、今日のイントロは「夕食は家族みんなで食べるんか?」で入ってみた。なかなかいけそうである。
「いや、みんなバラバラ。かあちゃんパチンコで忙しいし、とうちゃんは女の家に入り浸りやもん。」なんてのも聞き出してしまった。

    
4月14日
いままでクラスの子たちに対して「しつけ」の面で話することが多かったのでそろそろ、クラスの自治についても話を始めようと思い、まず今日の終礼で「クラス憲法」の草案を提案しておいた。
第1条  クラスの全員が対等に皆と話できるクラスであること。
第2条 クラスの全員が約束を守るクラスであること。
提案したのはこの2か条だけである。あと、どんなことをこの憲法に盛り込めばよいか、各自考えておくようにと言っておいた。何条まで増えるか楽しみである。


4月15日
久しぶりの休日である。昼まで寝てしまった。
しかし、クラスもなんとか動きだしているので一安心である。
このまま3年間突っ走りたいものだ。としみじみ思う。
また明日から長い1週間の航海が始まる。今夜は早く寝ておこう。


−−−−−あとがき−−−−−
思いつくまま書いてきましたがいかがでしょうか。参考になれば幸いです。
書きながら4年前のことを思い出していました。教師になって2年目、40期生たちを担任していた時のことです。あのころは何もわからなかったけど、その代わり馬力がありました。「何でもやりまっせ。」という情熱がありました。
この文章ではクラスに対する「しつけ」について主に書きましたが、クラスの子たちと「遊ぶ」のも僕は得意でした。「班対抗うでずもう大会(右手の部)」だとか、白百合を使っての班対抗ゲーム大会だとか(この二つのとき優勝班は次の席がえの時自由に席を選べた)、泉尾グランドへの「50分間ハイキング」だとか、飛鳥オリエンテーリング遠足の際の「タイムレース」だとか。
40期生たちと過ごしたあの夢のような3年間が今も目を閉じれば浮かんできます。


ところで、最近よく考えます。「教師として成長する。」とはどういうことなのか?「教師の力量」とはいったい何なのか?
これから一生考えていそうな感じがします。
これから新しく担任となるあなたも、いろんなことを考えてください。
考えて、考えて結論が出ればそれはあなたの財産になります。結論が出なければ出ないなりに、まず「動く」ことを勧めます。動いていく中で何らかの答えが、微笑みながらあなたに気づいてもらうのを待っています。
「とりあえず行動しよう。コトバで心にふたをせず。」です。                                                       1989年バレンタインデーの夜に脱稿