無題

母さんごめん、もう無理だ
6月25日に岐阜地裁であった裁判員裁判
裁判長「被告人を懲役3年に処する。5年間その刑の執行を猶予する」
10年以上介護してきた母を殺した殺人の罪。無精ひげを生やした男は、背中を丸め、表情を変えずに判決を聞いた。
法廷での証言などによると、男は福岡県の高校を卒業後、25歳で旧国鉄に入り、定年まで大過なく勤め上げた。過去に警察のお世話になったのは交通違反だけ。両親と妻、2人の娘の6人家族で、岐阜県大垣市内の一軒家で、ごく普通に暮らしてきた。十数年前、父が他界。成人した娘たちは結婚して家を離れた。
人生の歯車が狂い始めたのは2003年。母が両ひざを骨折し、付き添いなしで歩くのが難しくなった。訪問介護を利用したが、妻と母は次第にうまくいかなくなり、5年ほど前、妻が家を出て行った。
それ以来、母との2人暮らしに。男は母の朝食に卵焼きやみそ汁を作るなど介護に精を出したが、次第に不眠に悩まされるようになった。うつ病と診断され、通院を始める。
同時に、母は認知症が進み、ほとんど寝て過ごすようになった。
昨年3月、母を老人保健施設に入所させた。だが、半年で自宅に引き取った。
検察官「母を入所させている間、どう感じた?」
男「元気にやっているかと、心配は尽きなかった」
弁護人「母が自宅に帰ってきた理由は?」
男「施設はかわいそうだと思って」
その後は1週間おきにショートステイを利用。毎日、朝昼夕に30分ずつ、食事などの世話で訪問介護も受けた。
一方で、男のうつ病は悪化していった。しかし、昨年11月ごろ、通院をやめてしまった。胃の調子も悪く、食欲もなくなる。日増しに生活の意欲が薄れ、母のおかゆを作ることも難しくなった。介護だけでなく、自分の食事や入浴なども面倒に感じるようになった。
追い込まれていった男は、今年1月上旬、母に殺意を抱いた。
検察官「1月上旬ころ、包丁を持ち出した?」
男「そのころから殺そうという考えが頭にあった」
包丁を手に寝室に向かったが、この日、男は母を刺すことはなかった。
検察官「何が怖いと思った?」
男「母がもだえ苦しむ姿に耐えられないと思った」
事件が起きたのは、約10日後の1月17日。母がショートステイから帰ってきた翌日だった。
検察官「ショートステイから帰ってきたときの気持ちは?」
男「母を施設に預けても心配は尽きない。でも、そばにいても、うれしいかというと……、難しい」
男は午前6時ごろに起床し、台所で母のためにおかゆをつくった。母も台所に来て、いすに腰かけたが、おかゆは食べなかった。男は向かいに座り、自分でおかゆを食べた。「また1週間が始まるのか」。男は一線を越えた。
弁護人「殺そうと思ったのはいつ?」
男「おかゆを食べているときに、殺してしまおうと浮かんだ」
弁護人「どのような思いから?」
男「体調が悪く、おふくろを1人で残して自分が死んだ場合のことをいろいろ考えた」
午前7時10分ごろ、母を寝室に連れて行き、仰向けに寝かせると、その右側にひざをついて両手で首を絞めた。
母は抵抗しなかった。約15分、そのまま絞め続けた。
弁護人「首から手を離した後は何をしていた?」
男「ぼーっとして歩いたり、座ったりしていた」
午前8時。訪れた介護福祉士に、男は「母が転んでしまったので起こしてほしい」と頼んだ。母の唇は紫色になっていた。介護福祉士が異変に気付く。
「首を絞めて殺してしまったかもしれない」。男はそう言い直し、自ら110番通報した。
「なんでこんなことになったの」。介護福祉士に問われ、男は沈黙した。しばらくして、ぽつりと「悪いね」と答え、警察に連れられて行った。
検察側は法廷で、介護福祉士の調書を読み上げた。生前、母と介護福祉士のあいだで、こんなやりとりがあったそうだ。
「100歳になったら市長さんがお祝いに来てくれるよ」。介護福祉士が話しかけると、母は「頑張る」と言って拳を突き上げた。また、母はしばしば、「息子のところへ連れて行って」と頼んだという。息子の顔を見つけると、母はにっこりと笑った――。
検察官「殺す前に施設に入所させるとか、ヘルパーに来てもらうとか、考えなかったか」
男「できないことはないが、年金だけではやっていけない」
検察官「なぜ娘に相談しなかった?」
男「2人とも子どもがいる。親といえども、そこまで迷惑をかけるのは不可能です」
男は昨夏までは近所に住む娘の家を頻繁に訪れていたが、冬には2カ月に1回に減った。それでも孫に会えばうれしそうな表情を見せ、「変わりない。大丈夫」と話した。だが、介護福祉士には、「死にたい」と漏らしていたという。
判決の際、男を執行猶予とした理由について裁判長はこう述べた。
「犯行当時、うつ病で介護が困難だったうえ、動機も病気が大きく影響していて強く非難することはできない。今後は病気を治して、娘さんに相談するようにしてください」
裁判の途中で、こんなやりとりがあった。
弁護人「現在、母に対してどう償いたい?」
男「大変すまないという気持ちでいっぱい。償えるなら償いたいが……」
裁判員「殺さなければよかったと思いますか?」
男は、迷うことなく、こう答えた。
「今が一番苦しい」
検察側、弁護側とも控訴せず、判決は確定した。

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