生い立ちというか半生記というか(ver1.4)

ちょっと書き足したり、挿入したりリンクはったり。(「リンクをはる」の「はる」ってどの漢字を使うんでしょう。貼る?張る?)

  • 昭和36年3月22日、大阪市浪速区の愛染橋病院で生を受ける。

私が生まれた頃父母は(今は母校の日本橋中学のグラウンドになっている)関谷公園のバラック(市営住宅)に住んでいたそうですが、その頃の記憶はまったくありません。トコトコ歩いてご近所さんちに遊びに行っていたそうです。

  • 昭和42年4月大阪市立日東小学校に入学。

この頃は勉強はできて6年間学級委員を務めるなど「ええ子ちゃん」でしたがひ弱でいじめられっ子でした。1・2年の担任は森安先生、3・4年は今川先生、5年が工藤先生で6年が大橋先生。

日東小・日本橋小・恵美小の3校から進んでくるのですが相変わらずいじめられっ子でした。担任は3年間体育の北田先生。

  • 昭和51年4月大阪府立阪南高校入学。

私立の併願は桃山学院高校でした、願書を出しに行った日にガッコの中に土俵を発見してびっくり。
さすがに高校にもなったらもういじめられることはないやろ、とのんきに入学しましたがけっこうハードで「大学の受験資格を得るための3年間」と割り切っていたことを思い出しました。
以前も書きましたが2年のときの担任が物理の石本先生。「この人のあとを付いていこう」と一生が決まってしまいました。

  • 昭和54年3月阪南高校卒業

受験した私立大学はすべて不合格。共通一次元年の点数は702点で第1志望の京大理学部はもちろん不合格。そうして昭和55年3月まで自宅浪人。夏に京都二条城横の駿台の夏期講習行くも隣の席の女の子と映画見に行ったり遊びほうける。その結果共通一次の点数が伸びず750点台。

島大ではSF研創設に関わる、創設メンバーは久保さん・上杉さん・クマ・トビ氏などが。
1年前期は仮面浪人するも、両親の反対にあい卒業を目指すことに。ただ、仮面浪人中【学コン】で「実力十分」を取ったことは今も(小さく、心の中で)自慢。
1年時は数えるほどしか単位を取れず、2・3年で授業を受けまくりなんとか卒業単位をそろえる。ただし「1つの優より3つの可」
4年後期に運命の人と巡り会うが1年とたたず別れる。

  • 昭和58年7月大阪府教員採用試験受験

1次は刀根山・2次は花園・面接は島根大学教育学部にて受験。1次は行ったモン順の座席でちょっとビックリ。2次はとにかく暑かった。面接は「大阪で」と思ってスーツを実家においたままだったのですが島大教育学部で、という通知が来て送ってもらいました。最近の教員採用試験はややこしく複雑になっているようですがこの頃はまだ単純でしたなあ。
面接のあと、上に書いた運命の人との初デート。佐野元春の「No Damage」というフィルムコンサートに行きました。

ひょんなことから山岳スキー部(通称「山スキ」)顧問になり、高畑シープさんと出会う。この年授業は38期2年6・7・8組の「基礎解析」と3年選択の「数II」2講座を担当。2−7には山スキマネージャーのMさんとノルディック男子のM下くん。2−8にはのちのインターハイ選手ノルディック女子のN原さんがいました。
38期の副担でして九州縦断バス旅行の修学旅行について行きました。この38期の学年主任は英語の中川センセでのちに金光八尾の設立準備室に移られました。

  • 昭和60年は初めての担任。

40期1−7でした。担任の中に中内さんという大ベテランの女性教員がいたのですが、自分のやりたいようにできないときーきー喚くきっつい人でねえ。この人に気をつかって自分らしさを封印していたように思います。この年は阪神優勝の年、リーグ優勝の翌日は授業の最初に万歳三唱したモンです。
文化祭では人形劇『桃太゛郎』(桃太郎の「太」に濁点)を。人形作りからシナリオ・上演時間管理まで生徒らがやってくれました。
実は文化祭前、あいまいな指示しかせず「生徒が動いてくれん」と悩んでいたのですがキチンと分かりやすく指示したら見違えるようにてきぱきと動き出してくれて感動しました。生徒を動かすにはオトナが分かりやすく指示することが大事、というのは私のモットーです。
そうして泉尾でのいちばんの思い出と言えば↓

いちばん最初に担任したのは泉尾高校40期生、1年7組でした。生徒の急増期で40期生から11クラス募集になりましたが、教室は10クラス分しかありません。そのため本来の1-5HRの前にある調理教室を1-6HRに転用して授業をしていました。だから1−5と1−6は教室が向かい合わせなのです。もともと1棟中廊下式の校舎で教室が東を向いているガッコでしたから、環境は【きわめて劣悪】でした。
1-7には休みがちのN木くんという人がいました。おうちに連絡しても出席状況が改善されません。本人と話してもあんまり効きません。次第に欠課限度が近づいてきます。そうして1986年2月22日(土)でした。
今日、1時間目7組で授業だったのですがN木がいなかったのです。終わってからいたたまれなくなり、チャリで家まで迎えに行きました。/2時間目の途中に学校に着き、教室へ行かせました。/「どうしてもっと早くこうしなかったんだろう?」という後悔の念で胸が張りさけそうです。
この日以来「思いついたら即実行」というのが私のモットーです。ちなみにこのN木くんは結局留年しひとつ下の学年で3年まで進級したのですが秋あたりに「センセ、もうあかんわ」と言いに来て結局ガッコを辞めました。もう時効なので書きますが(ここだけの話にしておいてください)彼が退学願を出した次の日にふたりで飲みに行き「あのとき迎えに来てくれたのはうれしかった」と言ってもらいました。でも結局彼を退学に追い込んでしまったのは【チャリで迎えに行く前の私】なのだから忸怩たる思いがありました。

20数年前、例のN木くんを家まで迎えに行ったとき、ガッコに戻ってくるときはもちろん自転車2人乗りでした。後日【新しく担任になる人たちのために】という教研で、家に迎えに行ったことやそれがあってから私のモットーは「思いついたら即実行」であることなど、いろいろ話ししたら「2人乗りはあきませんで」と言ってのける新任者がいてずっこけたのを最近よく思い出します。

夕方5時半にN木くんと待ち合わせ。最初は「顔が分かるかな」と思っていたのですが、待ち合わせ時刻に目の前で携帯を取りだした人がいて同時に私の携帯が鳴り出したのですぐ分かりました。20年以上たっていても顔というのは変わらないモノですなあ。そうして知り合いのすごい店へ、支配人や副料理長があいさつに来てくれてこちらが恐縮しました。
ホントにね、あなたを見ているだけでお酒がおいしく飲めました。最初は分からなかったもう1人のT山が来られないのは残念でしたが楽しいひとときを過ごさせてもらいました。また今度はT山くんと3人で行きましょう。
昼と夜の仕事のかけ持ちはしんどいでしょうが、がんばって。

年度末に中内さんが長野高校へ転勤したので足かせが取れていろんなことを自由に「やってみよか」という気に。

  • 昭和61年は40期2−3を担任。

メモリアルクラスです。みんなで作り上げた『蒲田行進曲』は今でも心の中の勲章です。『先生ありがとう、優勝できなくてごめんね。2年3組一同』という板書で泣かされたのもきらきら輝く思い出です。
ただしこのクラスは担任には楽しいクラスでしたが教科担当には辛いクラスだったようで一緒の担任団だったH井さんは「毎時間戦ってます」と言ってました。
年度末に学年主任が府教委へ転出。組合一生懸命やってた人が府教委に出るその心境が若かったこの頃は分かりませんでした。ちなみにこの学年主任は最後高津の校長で終わった生田正春という人です。

  • 昭和62年は40期3−1を担任。

ホントなら2Fに11クラスの教室が並ぶのですが、生徒の急増期で教室が足らず3−1だけ3Fでした。このとき隣の2−1担任が数学のS田センセ、前の年にO村センセと一緒に加納からやって来て、いろいろ教えてもらいました。

最後に、あのすばらしい40期生たちに、心から感謝をこめて次の文章を贈り、この文章のまとめとします。
この文章は40期3年1組(たかしクラス)の卒業文集のためにたかしが書いたものです。 
「卒業おめでとう」という言葉しか思い付かなくて、、、、、
今を去ること3年前、昭和60年3月19日。合格発表の日。あの日は寒くて僕とI田先生が合格者名簿をネットにかけに行くときには冷たい雨が降ってきました。そして午後のオリエンテーション、「ああ、これから3年間この子達とつきあうねんなあ。」と思うと身が引き締まりました。
そしてあれから3年の年月が流れ去りました。この3年という年月は、確実に僕という人間を変えました。
今から4年前、昭和59年に教師になって初めてこのI尾高校にやってきたときは不安でいっぱいでしたが、君達と過ごした3年間で少しは教師としてやって行けそうな感じがしてきました。
それが果していいことなのか、それとも悪いことなのか今はわかりません。
でも、一つだけいえることは「初心を忘れるな!」ということをこれからも常に心に留めておこうということです。
今、I尾高校を巣立って行く君達にも同じ言葉を贈りたいと思います。
これからの人生、いろいろ辛いことが君達を待ち受けていると思います。だけど、「越えられない壁はありません。」し、「朝の来ない夜はありません。」どうか歯を食いしばって乗り越えて行ってください。
そして、その時は常に初心を忘れずに、謙虚な気持ちで物事に当たってください。
少しくらい自信がついたからといって思い上がることなく回りの人の言葉に耳を傾け、常に「このやり方でよいのだろうか?」と反省を怠らないでください。そうすればおのずと道は開けます。
最後に、、、いつも笑顔を絶やさず、元気で人生を歩んで行ってください。僕からのお願いです。
それじゃ、サヨナラ。いつまでも元気で。

  • 昭和63年は担任なしで自主活係、生徒会顧問みたいなことをやってました。
  • 平成元年4月大阪府立平野高校に転勤

狂乱の3年間でした。ここで今の奥さんと出会いました。

  • 平成4年4月大阪府立池島高校に転勤

先日なくなった池島高校です。いろんな思い出があります、1996年(平成8年)に生徒会やったときがいちばん面白かったなあ。反面、彼が倒れて亡くなるまでのあいだってのは、いろんな人の情に助けられた面もありますが人間ってのはどれだけ冷酷に勝手になれるんだろうと絶望した時期でもありました。
20期2年の3学期に阪神大震災発生、教員有志が西宮社協に連絡とって生徒の参加を募っていろんなお手伝いに。尼崎を過ぎて西宮に近づくにつれて屋根を覆うブルーシートが急増したのをおぼえています。大阪の普通さと西宮との落差に愕然としたものです。
24期を担任しているとき修学旅行の打ち上げで、私と体育のS水センセと理科のN西センセの3人で「来年はみんな転勤して散らばろかぁ」と言っていたらホントに年度末に転勤になりました。そろそろ様子見に希望出してみるかぁと2校限定で出してみたら山高に私と条件が全く同じ人がいてその人の抜けた穴に入りました。

最初の2年は進路で。1年目は公務員担当、2年目は指定校・公務員・専門学校の担当。
次の3年間は56期の担任、というかMさんの担任でした。
2年の2学期終わって年が明けたあたりに母が永眠。式場ではあんまり涙は出てこなかったのですが、生徒がたくさん来てくれたのを見たらあふれ出てきました。
次の3年間は生徒会部長。1年目は山高Tシャツの扱いで職会で孤立しつらい目にあいましたがそれ以外は楽しい思い出ばっかり、と言っておきましょう。
「生徒会部長が終わったら1年休んで進路部長か学年主任」と思っていたらいきなり転勤。「おれは山本に必要な人間ではないのか」とかなり落ち込みました。

  • 平成19年大阪府立枚岡樟風高校に転勤

転勤していきなり6期2年担任。担任ということは前もって知らされておらず、当日も校長は何も言わず机を探しに行ったとき職員室で教務部長に「あんた、2年担任やねんから机は2年担任室やで」と言われ愕然となる。転任者に担任させるくせに、その責任は誰もとろうとしない腐れガッコ。
この年はSDGに振り回された1年。SDGというのはスタート・ダッシュ・ガールズという私の造語、新学年早々停学になる女子生徒のこと。

  • 平成20年は6期3年担任

「こんなもんか」と分かってきたので前年よりはずっと気が楽。

  • 平成21年は9期1年担任

この年保護者向け「学級通信メール」を配信してみる。生徒がガッコに来ている日は毎日出して最終的には202号まで。学情のポータルを使いたかったのだがうまくいかず、携帯電話の【グループ】と【一斉発信】の機能を使う。

  • 平成22年は生徒会主担

3年間担任したので「ちょっと休ませてね」と思っていたら選挙で生徒会主担に。やる気のないダラけた主担でしたな。

  • 平成23年は生徒指導部長

前年の暮れでしたか担任に入るであろう若手たちから「学年主任お願いします」と言われたしベテランからは「生指部長に推薦させてもらう」なんて言われたし。結局は選挙の順番のあやで生指部長に。しかしまあ悔いの残る生指部長ではありました。私みたいなガラスのハートの持ち主に生指部長なんかさせちゃダメです。

  • 平成24年は役のない副担

校長からは「新2年学年主任頼む」と言われていたのですが、父の状態がきわめて悪くなり校長に断ったらそれからしばらくして父が永眠。ということで21世紀に入って初めて担任・運営委員を外れました。

  • 平成25〜27年は13期学年主任

前年12月に11期修学旅行に付き添いで行ったとき校長から「今度こそ新学年の主任頼む」と言われて「そのつもりです」と答えました。
1年時は何人かあらくれものがいて振り回されましたが2年以降はおちつき、穏やかな学年でした。

学年集会なんぞで静かにならないときはどなっていたのですが、3年最初の学年集会でどなったら前で話している人が「清見先生にどなられて静かになるのは卒業しよう」と言って、それ以来どなるのをやめました。

  • 平成26年に首席試験受験

レポート出して面接受けただけ、校長からは「あの人のあと」と言われていたのですがある人が管理職になったため繰り上げて27年から首席に。

  • 平成28年からは首席専念

13期の卒業とともに学年主任が終わり、首席専念。