PLのいない夏

PLのいない夏 楽天・平石2軍監督が語る母校と98年夏・延長17回の死闘
全国各地で熱戦を繰り広げ、次々と甲子園の出場校が決定している中、春3度、夏4度の全国制覇を誇る名門・PL学園の名前はない。昨夏の大阪大会を最後に、休部となり、今年3月には大阪府高野連に脱会届を提出した。“PLのいない夏”をOBはどう感じているのか。キャプテンとして1998年、春夏連続甲子園に出場した楽天・平石洋介2軍監督(37)に母校への思いと、伝説となっている横浜との延長17回の熱戦を聞いた。
27日現在、首位をキープしている1軍とともに、楽天は2軍も元気だ。イースタン・リーグの首位を走る。2軍監督に就任して2年目になる平石は、「2軍は今後のこともありますので、浮かれてられないです。勝つためだけの采配は出来ないし、選手の成長を考えて我慢しないといけないところもある。でも『育成だから勝たなくてもいい』というのは嫌なんです。負け癖がつくのは絶対に良くない。選手には『とにかく勝ちに行け』と言っています」。
厳しさの中にも良き兄貴分として選手を見つめる温かい目線がある。「エラーとかミスで怒ることは基本的にはしません。思い切ってやった結果ならば怒りません。ただ日々の準備を怠っていたり、ダラダラした雰囲気になったときはピリッとしたことを言いますけどね」と笑った。
母校の野球部が休部した状況をどう思っているのだろうか。「(生徒数が減少して)学校の経営がうまく行っていないということは聞いていましたが、本当に(休部と)なるとさみしいですね。新聞でも(母校の試合結果を)絶対チェックしていましたから」。プロ野球の選手は全員、高校野球を経験している。平石は言う。「大学や社会人を経験しない選手もいますが、高校はみんな出ている。この時期になると『お前のところ負けたな』とか『弱いな』とかの会話になる。でも今は『学校あやへんやん』ってなる。その会話に参戦できないのがさみしいですね」。
平石にとってのPL学園での3年間はどのような意味を持つのか。「野球の技術はもちろんだけど、野球以外のことを学んだことが大きかった。いろんな意味で成長させてもらった。人との接し方とか、気配り・目配りとか良く言われましたけど、要領が良くないと生きていけない。生きていく術を学びました。ホンマ苦しかったです。もう1度やれと言われるときついかな」と感謝の言葉を口にした。
PL学園には下級生が上級生の身の回りの世話をする“付き人制度”が長い間存在した。その中で野球の技術を学び成長する一方で、何度となく暴力事件を生み、平石の卒業後には出場停止処分を受けたこともあり廃止された。「暴力事件は確かにいけない。時代の流れに順応しないといけないし、もしかしたら時代に乗り遅れていたのかもしれない。でも変えないで引き継いでいくことや大事にしなければいけないことはあると思うんです」と複雑な心情を吐露した。
平石は長い歴史を誇るPL学園の中でも、非常に珍しい控え選手のキャプテンだった。甲子園は背番号13で出場している。「仲間に恵まれた、本当に良かった3年間ですが、プレーヤーとして個人的にはいい思い出がないんです」。大分出身の平石は中学で大阪に“野球留学”をしている。祖父母とともに大分から大阪に移住しボーイズリーグの名門「八尾フレンド」でプレー、全国優勝を果たした野球エリートだった。PL学園でも1年秋にベンチ入りしたが、好事魔多し。左肩を痛め2年春に関節唇損傷などの手術を受け、苦しいリハビリの日々を送った。2年秋の新チームで部員の投票で主将に指名されたときはまだボールも握っていなかった。「ケガして野球やっていないやつが、アカンことはアカンって言っていいものか」との葛藤も、副将の三垣勝巳の「遠慮せんで言ってくれ、みんな言うこと聞くから」との後押しもあり、気持ちを切り替えたという。
翌春のセンバツでは「(肩の)可動域が戻らなくて、40メートルくらいしか投げられなかった。それも狙ったところに投げられなくて、投げるのが怖かった」。それでも右翼手で全試合に先発出場。準決勝で松坂大輔らがいた横浜に2―3で逆転負けし、甲子園で通算58勝を挙げた名将・中村順司監督が勇退した。その後、打倒・松坂、打倒・横浜を合言葉に、猛練習を重ねたことが夏に大きなドラマを生んだ。
第80回全国高校野球選手権記念大会の準々決勝、横浜・PL学園戦は、延長17回、3時間37分の死闘となり、高校野球史に残る名勝負となった。三塁コーチャーの平石が、横浜の捕手・小山良男の癖を見抜き球種によって叫ぶ言葉を変え伝達。それによって松坂を攻略したとされており、当時の「NHKスペシャル」でも特集された。
平石は苦笑いで否定した。「実際にはあれで選手は打っていないんですよ。(当時は)声の伝達はOKだったので、届いているかもしれない。けど、ブラスバンドもいるし、何を言っているか全部はっきり(打席の選手には)聞こえない。僕の声は全然関係ない」。平石の意図は相手チームをかく乱することだった。横浜ベンチは三塁側だった。「ランナーコーチとして何かやることがないかなと思って。松坂はすごいピッチャーでちょっとやそっとでは倒れない。ならばキャッチャーをかく乱させたれと思って。ピッチャーではなくキャッチャーをずっと見てワーッて声を出して。相手がバタバタしてくれるのを狙った」。
小山の癖も見抜いていた。「ピッチャーの球がすごくなればなるほど、ワンバウンドを止めようとして癖が出る。自分は人の動きを見たりするのが好きだった。PLのいいところは、先輩のプレーを見て学ぶこと。今はアカンと言われているけれど、付き人制度があって、全体練習が終わってからの自主練習で学ぶことがあった」と説明した。
春に負けてから松坂対策を入念にやってきた。打撃マシンを使わないPL学園は、下級生やコーチに12〜13メートルの至近距離から全力で投げてもらい打撃練習をする。ただ投げるのではなく、クイックなど間合いも変え、緩急もつける。「前日の試合が終わって、『室内行くぞ、打ちたいやつは?』ってコーチが言ったら野手全員が手を挙げて。最初は当てるのが精いっぱいだったのが、フェアグラウンドに飛ぶようになって…。球種やコースを教えるのは(禁止されていない当時は)どこのチームもやっていること、打てたのはみんなの力です」と力説した。
平石は、8回から代打で出場し、右翼の守備についている。ほとんどの試合では他の打者の配球など試合展開を記憶しているが、この試合に限っては覚えていないところが多いという。それでも鮮明に覚えていることがある。「16回の攻撃中にベンチで、(竹中徳行)部長が『(延長18回で)引き分けなら、明日1試合だけあるらしいぞ』と言ったんです。勝つためにやっているのに、何でこのタイミングで言うの?って、すごい嫌な予感がしました」。あとは決着が付いた延長17回表の横浜の攻撃。2死からの遊ゴロを、本橋伸一郎が一塁に悪送球し出塁を許した。ここは間を取ることが必要だと、ライトのポジションから「タイム取れ!」と叫んだが、大歓声にかき消され届かなかった。平石はベンチにいるときは自分の判断で監督に「マウンド行っていいですか」と伝令役を務めていた。その直後に常盤良太の放った打球は平石の頭上を越えて右中間スタンドへ飛び込んでいった。決勝2ランとなった。「ホームランを見上げたのは良く覚えています」。
平石は卒業後に同志社大に進学。社会人野球のトヨタ自動車でプレーし、2004年ドラフト7巡目で新規参入した楽天に入団した。7年間の現役生活で11年のオフに戦力外通告を受け育成コーチの要請を受けた。その年の後半は2軍生活だったが、ようやくしっくりくる打撃を見つけていた。真っ先に尊敬するPL学園時代のコーチ・清水孝悦さんに電話で相談した。「やっとこれやったら勝負できるというバッティングに出会って、アホやと言われるけれど、(コーチを)断って、トライアウトを受けたい気持ちが強いんです」と語る平石に、清水さんは「お前、縁の下の力持ちが似合うんだな。そういう人生なんだな」と諭したという。平石は現役引退を決断、コーチに就任した。
その後、2軍外野守備走塁コーチ、1軍打撃コーチなどを経て、昨年から2軍監督を務める。「中学、高校と野球を考えていましたし、高いレベルのものを教えてもらっていました。それは、この立場になると大きいですね。アマチュア野球とプロ野球は違いますが、若い時から野球を考えさせてもらった経験は生きていますね」。7年間で1軍では122試合の出場、打率2割1分5厘だった。「実績がほとんどない僕みたいな人間が、実績ある人と同じことを言って、どっちのことを聞くんやろという葛藤はありましたね。実績がない分、いろんな引き出しを増やさないと…。野球を知っていること、そこだけは負けないようにしている」。2軍監督としての喜びは、関わった選手が1軍で活躍すること。そのために、真摯に野球に向き合っている。PLのいない夏にも、平石の野球への取り組みは変わらない。

http://www.hochi.co.jp/baseball/column/20170728-OHT1T50089.html