朝のマドンナ

フリー転身、そのとき父は… 気象予報士酒井千佳さん

大学の工学部の教授でした。昔ながらの厳しい頑固おやじで、私が高校時代の門限は午後5時。1年のうち、父の忘年会がある1日を除いて毎日、家族で夕食を食べていました。
「研究の仕事はすごく楽しい」「大学院に行けば、好きなことを勉強できる。大学院に行くべきだ」が口癖です。しかし、私にそんな気持ちはありません。大学時代、日本三大祭りの一つ、大阪天満宮天神祭を盛り上げる「ギャルみこし」に参加し、ミス天神橋に選ばれました。それをきっかけにメディアの仕事に興味を持ち、アナウンサーを目指しました。
就職活動の際、父とは正社員以外の採用なら大学院に進学すると約束しました。試験に合格するはずはない、という感じで喜んでいました。最終的に、金沢市のテレビ局への入社が決定。でも当時、父は岐阜に住み、私の働く姿をテレビで見ることは出来ません。「全国放送でなければ」と思っている節があり、認めてくれていないなと感じました。
私にとって、大きな転機は6年前のフリー転身です。東京で働きたいけど、一人でやっていけるのだろうか。挫折する可能性の方が大きいのではないか、と悩みました。
父は岐阜の大学で働く前、大阪の大学で十数年働き、毎日ある決まった時刻の電車の先頭車両に乗って通勤していました。父が岐阜に移った1年後の2005年4月、その電車は大きな事故を起こします。大勢の方が亡くなったJR福知山線宝塚線)の脱線事故です。
大阪で働き続けていれば、おそらく命はなかっただろうと思います。父は「人生何があるか分からない」と言い、「岐阜でいいことも悪いこともあったが、移ってよかったと思っている」と私の転身を後押ししてくれました。意外でした。
4年前、父が大学を定年退職する際、母と妹と最終講義を聴きました。パソコンの操作を失敗し、「しもた」と関西弁を話す姿がおもしろかったです。今は兵庫県の実家で暮らしています。毎朝、私が出演するニュース番組を見てくれているはずです。

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