芸備線、嗚呼

JR西、9路線で復旧に1カ月以上 芸備線は1年
JR西日本は11日、西日本豪雨の影響で、中国地方の9路線10区間の復旧に1カ月以上かかる見込みと発表した。山陽線は盛り土が流され、全線再開まで数カ月。橋桁が流失した芸備線は1年近くかかる見込み。
11日現在、山陽新幹線は新大阪―博多間で運行している。在来線で大阪から西へ向かうと、山陽線笠岡駅岡山県)止まり。九州から山陽線で東へ向かうと徳山駅山口県)止まり。
【復旧に1カ月以上】山陽線(三原―海田市、柳井―徳山)▽姫新線(上月―新見)▽津山線(野々口―牧山)▽伯備線(豪渓―上石見)▽芸備線(新見―下深川)▽福塩線(府中―塩町)▽因美線(津山―智頭)▽呉線(三原―海田市)▽岩徳線(岩国―櫛ケ浜
【1カ月以内に復旧】山陽線(笠岡―三原、岩国―柳井)▽因美線(用瀬―智頭)▽津山線(岡山―牧山、野々口―津山)▽伯備線(総社―豪渓)▽福塩線(福山―神辺)▽芸備線(広島―下深川)▽山陰線(福知山―和田山)▽舞鶴線(綾部―東舞鶴)▽播但線(寺前―和田山
JR四国も11日現在、予讃線(本山―観音寺、伊予市宇和島)と予土線宇和島窪川)で運休。復旧に2カ月以上を見込む区間もあるという。瀬戸大橋から予讃線高松市へは通じているが、松山市へは香川県の本山―観音寺間が代替バスとなる。

乗った線ばっかりなので悲しいです、嗚呼。

宮内悠介シンドローム

を読み終わって、昨日着手したのが
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宮内悠介

最近宮内悠介ばかり読んでいて、まず

ディレイ・エフェクト (文春e-book)

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これから入って、次はその次が
スペース金融道

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そうして
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をはさんで
盤上の夜 (創元SF文庫)

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へ行って今読んでいるのが

テレ東的なモノ

「日本代表、ダメそうな空気はチャンス」 テレ東的戦略
テレビ東京・高橋弘樹プロデューサー
突然ですが、クイズです。
カネなさ過ぎ。予算がないなら頭を使え。ずーっと最下位。イメージキャラはバナナのナナナ。答えは、そう、テレビ東京(テレ東)です。民放キー局の中で、視聴率は安定の最下位。でも、池の水を抜く番組や来日した外国人についていく番組など、話題の番組を連発しています。テレ東の、番組作りへの心構えや戦略は、ワールドカップ(W杯)で強敵に挑むサッカー日本代表にも通じるかも。終電を逃した人の家についていく番組を担当するテレ東制作局の高橋弘樹プロデューサー(36)に、「テレ東的弱者の戦い方」を聞きました。
本当に申し訳ないんですが、僕はサッカー、ほとんど見ないんです。あのサッカーのキラキラしている感じが苦手で。キャプテンは長谷川さん? あ、長谷部さんか。その程度の知識です。ほんと、すみません。
そもそも、テレ東は今回のW杯の試合中継はしていません。過去のW杯では外国チームの対戦を中継したこともあったけど。普段からサッカー中継をやっているわけじゃない。テレ東は得意なことに集中しろっていう戦略なので。
負けますから。普段やっていないことを急にやったところで、絶対負けます。王道の戦略で行っても、向こう(競争相手)も王道の戦略だったら、お金や人といったリソースが少ない方が負けるに決まっている。だから、リソースを得意な分野に集中して、一点突破する。じゃないと勝負にならない。全面的な勝負はしない。ニッチを狙う。これがテレ東的な弱者の戦略です。
業界1位の日テレさんに比べれば、制作費は3分の1から2分の1くらい。5年前くらいは、5分の1くらいだったけど、他局も制作費が削られているから差は縮まっています。でも、テレ東的には、「これ以上カネがなかったらテレビつくれねーよ」っていうギリギリのところでずっとやっているので、差が縮まっている実感はないです。
だから、豪華なセットは組めないし、何十人もタレントさんを呼べない。「家、ついて行ってイイですか?」は、ロケだけで勝負している番組です。素人さんに出演してもらっているから基本的に出演料はタクシー代を払うくらいで、ギャラはなし。スタジオのセットもない。タレントさんがVTRを見ながらコメントする場面は、街で見つけた人の家をスタジオ代わりにして撮影しています。その分、予算のほとんどを、制作陣の人件費に投入できている。あの番組、実は70人くらいディレクターさんが関わっています。だから、夜中にいきなり家に行くなんていう、普通は不可能に思えるようなことができるんだと思います。
もちろん自分たちが弱者であることは自覚しています。「はい、きょうも最下位です」「最下位です」「最下位です」って視聴率表を毎日見せられたら、1年もたてばとりあえず猫背になる。そうやって染み込まれる企業文化はあると思います。
逆に言えば、今より下はないわけです。プレッシャーはゼロ。ダメでも怒られないから。これですね、日テレさんの看板番組なんかだと、視聴率20%行かないと会議で「うーん、数字悪いなー」ってなると思います。そのプレッシャーはすごいと思う。一方、テレ東にはフルスイングして三振することに恐怖感はないんです。大差で負けてるから。だから、企画の選考条件もかなり緩くて、好きにやらせてもらえるわけです。失敗しても怒られないという精神的な優位性は、日本代表にもあるんじゃないかな。直前で監督が変わって、もうダメそうな空気は少なからずあるわけじゃないですか。これはチャンスですよ。
逆に、テレ東みたいな後発局が、日テレっぽい王道な番組をつくって滑ったときが一番ダサい。視聴者のニーズをとらえて、画面もちゃんとカラフルにして、しっかり視聴率を取りに行こうって、王道な番組をつくるとだいたい滑る。だって、王道の番組だったら、3倍のお金かけている他局に勝てるわけがない。でも、おれにも日テレっぽい番組だってつくれるぞっていうコンプレックスもあって、王道番組もつくりたいという誘惑に負けちゃって、思わず王道っぽい番組をつくっちゃうこともあるんです。でも、結果は大抵悲惨でした。
日テレはお茶の間で誰もが安心して楽しめるといった番組イメージ。フジは若者のリア充カルチャー。TBSは報道とインテリ系路線。テレ朝も報道、あと社会派路線。じゃテレ東は? サブカルとか非リア寄りカルチャーという感じだと思う。その路線から大きく外れてキラキラした番組をつくっても、やっぱり他局に一日の長があるから勝てない。がんばってつくって滑って、社内で「ダセーやつ」って言われるのは本当にきついです。
正々堂々と王道をやって負けるんだったら批判されないんじゃないかという考えがある。人間だからそういう甘えって頭をよぎると思うけど、それって自己満足だし、結局負けるんだったら意味がない。ダサいって言われるだけ。
「家ついて行って」は、もともとゴールデンに行くような番組とは思っていなかったです。深夜でコソコソと好きなことやれればいいなーくらいにしか思っていなかった。周りを意識せずに、自分のやりたいことをふざけてでもやろうっていう気持ちの方が、結果的に話題の番組になる。斜めくらいからシュート打つくらいが決まる気がします。
テレ東で話題の番組をつくっているプロデューサーって、やっぱり実績ないときから、とんがっていたというか、ちょっと先輩をなめているような人たちだった。それで、そういう先輩をなめているような人が、かわいがってもらえるような企業文化がうっすらある。それって、社内で一番になるより、日テレを倒すぞ、フジを倒すぞっていう考えが先にあるから。社内の下克上は許容される。
世論ももっと日本代表に下克上待望論みたいな空気を出した方がいいんじゃないかな。本田、香川、岡崎、長友。僕のうっすいサッカー知識でも知っている名前。なんか年功序列っぽい感じはします。日本代表も、チームのバランスとか関係なしに、とにかく対戦相手を倒すぞっていう選手が前面に出てきてほしい。
テレ東って世間からしたら、「(笑)=かっこ笑い」みたいなポジションなんですけど、日本代表も(笑)みたいなポジションを目指せばいいんじゃないでしょうか。テレ東は他局の方から「テレ東がんばっているよね(笑)」とか、「テレ東もっとがんばってよ(笑)」とか、けっこう言われるけど、これって正直、対戦相手として見られていないってことなんですよね。他局の視聴率分析にテレ東は入っていないって聞いたことがあります。
でも、この相手にされていない、(笑)ポジションって、相手が油断しているとも言える。相手の油断を見逃さずに、相手が思いつかないような番組をつくってぶつける。そうすると、こっちを見る目が(笑)ではなくなる、ような気がする。だから、対戦国が「相手は日本かー(笑)」みたいな雰囲気になっていたら、チャンスかもしれませんよ。そして、ここ一番大事なんですけど、その一瞬の油断を見逃さない。蜂の一刺しで巨人を倒してほしい。
日本代表ってベスト4を目指してるんでしたっけ? テレ東も視聴率4位を目指してるんで、少しだけあやかりたいですね。テレ東がかなえられる日は、今世紀中にくるかどうかさえあやしいけど、日本代表には、ぜひ今回頑張って欲しいです。僕たちは、まずはたまーに1週間だけでも4位になれるように、頑張ります。(聞き手・佐々木洋輔

やらされたのでしょう・・・

反則の日大選手、声を上げて泣いた 記者が見たあの試合
アメリカンフットボールの日本大―関西学院大の定期戦(6日、東京・アミノバイタルフィールド)で日大の選手が悪質なタックルなど反則を繰り返して退場となった問題で22日、この選手自身が記者会見を開くことになった。辞任した内田正人前監督による反則行為の指示があったのかどうかについて、選手本人が何を語るのか注目される。
あの日、私は試合会場にいた。関学オフェンスの最初のプレー。テレビなどで繰り返し流れているシーンだ。私は関学QBが投げたボールをカメラで追っていたため、日大の守備選手の反則は見ていなかった。二つ目の反則もボールと関係のない場所だったので見ていない。ただ、立て続けに最も重い15ヤード罰退の反則をした選手をベンチに下げないのは変だなと感じていた。そして三つ目。これもボールから離れたところで関学の選手に小競り合いを仕掛け、ヘルメットを殴った。5プレーで三つもの反則。私には、彼が何かにとりつかれているかのように見えた。
彼はここで資格没収(退場)の処分を受けた。去年の甲子園ボウルでの彼の活躍をはっきり覚えていたので、いったい何が起こったのかと感じた。フィールドから出てきた彼はスタッフに促され、ベンチ奥にあった負傷者用のテントに入った。私はそこに近づいた。
彼は泣いていた。声を上げて泣いていた。同じポジションの選手が肩に手を置いて、言葉をかけていた。関学側に回って、テントの入り口からのぞく彼の背中を撮った。
その夜、最初の反則の動画が出回った。私は自分自身が選手だったころから約25年にわたってアメフトを見てきたが、初めて見る恐ろしい光景だった。
試合から数日後、日大の別の選手が教えてくれた。「(当該選手は)最近の練習で監督にハマってたんです。スクリメージ(試合形式の練習)にも入れてもらえなくて。それで監督に言われたんです。試合に出たいなら向こうのQBを壊してこい、って」。日大側は「意図的な乱暴行為を行うこと等を選手に教えることは全くございません」と否定しているが、いまはあの涙のわけが、分かる気がする。彼は第二の被害者なのではないだろうか。
覚悟を決めて会見で包み隠さず語り、けがをさせた関学のQBのところへ謝罪に行ってほしい。すべてはそこからだと思う。

https://digital.asahi.com/articles/ASL5P32BZL5PULZL001.html?_requesturl=articles%2FASL5P32BZL5PULZL001.html&rm=614

自由に・・・

イチロー、もう自由にやり」
今月初め、一人の野球選手の去就にまつわるニュースが世界を駆け巡った。米大リーグ・マリナーズイチローオリックス・ブルーウェーブ時代からのオリックスファンとして、長く彼を見守ってきた小沢直子さんの目には何が映ったのか。
イチローは今月初め、今季の試合には出ず、会長付特別補佐に就くことを明かした
「楽しそうでしたね。もしかしたらもう試合には出ないかもしれへんけど、いつまでもユニホームを着てひたすら打撃を極める。そのことに、ほんまにワクワクしているんやろなって。テレビに向かって言いました。『自由にやり』って」
オリックスファンになったのは1991年。神戸の女子高1年生でした。92年のジュニアオールスター(当時)で、初めて鈴木一朗、今のイチローを見ました。『2軍にすごい子がおる』といううわさはあったけど、いきなり代打本塁打ですよ。『えらい子が出てきた』と感動しました」
「選手寮まで『追っかけ』もしました。寮から出てきたイチローは、寝癖のついた頭に、よれよれのスヌーピーのTシャツ。愛想のない子でした」
「常連ファンのおっちゃんらと食事に行ったときも本人はほとんどしゃべらず、『機嫌悪いんかな?』と思いました。でも、時間がたつうち、ただの人見知りで素朴な選手なんや、と徐々にわかってきました」
「女性だけの応援団『関西雨天中止』を結成したのは94年。イチローが年間最多安打プロ野球記録(当時)を出した年です。『新庄(剛志)や、亀山(努)や』と騒いでいた阪神ファンの女の子たちも、急に『イチロー!』って。私も球場でトランペット吹きまくり。チームもそこそこ強くて、ほんま楽しかった」
1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きた
「大学1年でした。実家は全壊し、避難生活を送りました。それでも球場には通いましたが、道すがら、ぽっかり空いた更地を見ては『誰の家やったんやろ』、道端の花束を見れば『ここで誰か亡くならはったんかな』とつらかった。ただ、球場へ行けば『がんばろうKOBE』の袖章をつけた選手たちが活躍し、チームは快進撃。スタンドの『イチロー』コールは、日に日に大きくなっていきました。いつもの球場の右翼席だけが、現実を忘れられる場所でした」
「あの年、イチローに、オリックスに、私たち神戸っ子はどんだけ勇気づけられたやろ……って。倒壊した阪神高速、炎上する長田の市場。打ちまくるイチロー歓喜のスタンド。ほんまに同じ年の出来事やったんかなあ、と思います」
「翌96年、イチローはサヨナラ安打で、リーグ連覇を決めます。彼、飛び上がって喜んでましたね。でも無邪気に喜ぶ彼の姿を見たのは、あれが最後だったような気がします」
神戸のスターが全国区に。イチローを取り巻く環境も変化していった
「記録を塗り替え、実績を積むたび、野球の求道者、グラウンドの哲学者として神格化される。一方で『カッコつけんな』『増長している』といわれなき批判も浴びる。だんだん殻に閉じこもるようになった」
イチローは変わらず目の前にいたけれど、楽しそうには見えなかった。常にイライラして、客席からのヤジに怒り、ボールをフェンスに投げつけたこともありました。ともに震災を乗り越え、優勝を喜び合った時のイチローはもういなかった。『大リーグ行きたいんやろ、はよ行きや』というのが正直な気持ちでした」
「だから、米国に渡ってからの活躍は、もちろんうれしかった。でも、本人には楽しさと一緒に苦しさもあったと思う。『イチローすごい』が『日本人すごい』になり、両肩に『国家』が乗っかってくる。求められているのはワクワクするプレーなのか、すごい日本人像なのか。ずっと、本人にしかわからない思いがあったんとちゃうかな」
「帰ってこい、とは言いません。帰ったらまた記録とか優勝とか、いろんなものを背負わされそうやし」 だから、本人にはこんな言葉をかけたいと思う
「米国で気ままに現役生活を続けてな。これからはもう何にも背負わず、素直に自分を出していったらええねんで。神戸が一番つらいときに、全力のプレーで元気や勇気をくれた。そのことだけで、十分やから」

https://digital.asahi.com/articles/ASL5K6DP8L5KPIHB02H.html?_requesturl=articles%2FASL5K6DP8L5KPIHB02H.html&rm=700

弔辞

宮崎駿さん「雨上がりのバス停」での出会い忘れない
宮崎駿監督のあいさつ
パクさん(高畑さんの愛称)は95歳まで生きると思い込んでいた。そのパクさんが亡くなってしまった。自分にもあんまり時間がないんだなぁ、と思う。
9年前、私たちの主治医から電話が入った。「友だちなら高畑監督のたばこをやめさせなさい」。真剣な怖い声だった。主治医の迫力に恐れをなして、僕と鈴木さん(敏夫プロデューサー)はパクさんとテーブルを挟んで向かい合った。姿勢をただして話すなんて初めてのことだった。
「パクさん、たばこをやめてください」と僕。「仕事をするためにやめてください」。これは鈴木さん。
弁解やら反論が怒濤(どとう)のように吹き出てくると思っていたのに、「ありがとうございます。やめます」。パクさんはきっぱり言って頭を下げた。そして本当に、パクさんはたばこをやめてしまった。
僕はわざとパクさんのそばへたばこを吸いに行った。「いい匂いだと思うよ。でも全然吸いたくなくなった」とパクさん。彼のほうが役者が上だったのであった。やっぱり95歳まで生きる人だなあ、と僕は本当に思いました。
1963年、パクさんが27歳、僕が22歳の時、僕らは初めて出会いました。その初めて言葉を交わした日のことを、今でもよく覚えています。
たそがれ時のバス停で、僕は練馬行きのバスを待っていた。雨上がりの水たまりの残る通りを1人の青年が近づいてきた。「瀬川拓男さんのところへ行くそうですね」。穏やかで賢そうな青年の顔が目の前にあった。それが高畑勲ことパクさんに出会った瞬間だった。
55年前のことなのに、なんでハッキリ覚えているのだろう。あのときのパクさんの顔を今もありありと思い出せる。
瀬川拓男氏は人形劇団・太郎座の主宰者で職場での講演を依頼する役目を僕は負わされていたのだった。
次にパクさんに出会ったのは、東映動画労働組合の役員に押し出されてしまった時だった。パクさんは副委員長、僕は書記長にされてしまっていた。緊張で吐き気に苦しむような日々が始まった。
それでも組合事務所のプレハブ小屋に泊まり込んで、僕はパクさんと夢中に語り明かした。ありとあらゆること。中でも作品について。僕らは仕事に満足していなかった。
もっと遠くへ、もっと深く。
誇りを持てる仕事をしたかった。
何をつくればいいのか。どうやって。
パクさんの教養は圧倒的だった。僕は得がたい人に巡り合えたのだとうれしかった。そのころ、僕は大塚康生さんの班にいる新人だった。大塚さんに出会えたのはパクさんと出会えたのと同じぐらいの幸運だった。
アニメーションの動かす面白さを教えてくれたのは大塚さんだった。
ある日、大塚さんが見慣れない書類を僕に見せてくれた。こっそりです。それは、「大塚康生長編映画作画監督をするについては、演出は高畑勲でなければならない」という会社への申入書だった。当時、東映動画では「監督」と呼ばず「演出」と呼んでいました。
パクさんと大塚さんが組む。光が差し込んできたような高揚感が湧き上がってきました。そしてその日が来た。長編漫画第10作目(「太陽の王子 ホルスの大冒険」)が大塚・高畑コンビに決定されたのだった。
ある晩、大塚さんの家に呼ばれた。スタジオ近くの借家の一室に、パクさんも来ていた。ちゃぶ台に大塚さんはきちんと座っていた。パクさんは組合事務所と同じようにすぐ畳に寝転んだ。なんと、僕も寝転んでいた。
奥さんがお茶を運んでくれた時、僕は慌てて起きたが、パクさんはそのまま「どうも」と会釈した。女性のスタッフにパクさんの人気がいま一つなのは、この不作法のせいだったが、本人によると、股関節がずれていて、だるいのだそうだった。
大塚さんは語った。「こんな長編映画の機会はなかなかこないだろう。困難は多いだろうし、制作期間が延びて問題になることが予想されるが、覚悟して思い切ってやろう」。それは意思統一というより、反乱の宣言みたいな秘密の談合だった。もとより僕に異存はなかった。何しろ僕は、原画にもなっていない、新米と言えるアニメーターに過ぎなかったのだ。
大塚さんとパクさんは、事の重大さがもっとよく分かっていたのだと思う。勢いよく突入したが、長編10作の制作は難航した。スタッフは新しい方向に不器用だった。仕事は遅れに遅れ、会社全体を巻き込む事件になっていった。
パクさんの粘りは超人的だった。会社の偉い人たちに泣きつかれ、脅されながらも、大塚さんもよく踏ん張っていた。
僕は夏のエアコンの止まった休日に1人出て、大きな紙を相手に背景原図を描いたりした。会社と組合との協定で、休日出勤は許されていなくても、構っていられなかった。タイムカードを押さなければいい。僕はこの作品で仕事を覚えたのだ。
初号(試写)を見終えたとき、僕は動けなかった。感動ではなく、驚愕(きょうがく)にたたきのめされていた。会社の圧力で、迷いの森のシーンは「削れ」「削れない」の騒ぎになっているのを知っていた。
パクさんは粘り強く会社側と交渉して、ついにカット数からカットごとの作画枚数まで約束し、必要制作日数まで約束せざるを得なくなっていた。当然のごとく、約束ははみ出し、そのたびにパクさんは、始末書を書いた。一体、パクさんは何枚の始末書を書いたんだろう。僕も手いっぱいの仕事を抱えて、パクさんの苦闘に寄り添うヒマはなかった。大塚さんも会社側の脅しや泣き落としに耐えて、目の前のカップの山を崩すのが精いっぱいだった。
初号で僕は初めて、迷いの森のヒロイン、ヒルダのシーンを見た。作画は大先輩の森康二さんだった。
なんという圧倒的な表現だったろう。
なんという強い絵、なんという優しさだったろう。
これをパクさんは表現したかったのだと初めてわかった。
パクさんは仕事を成し遂げていた。森康二さんもかつてない仕事を成し遂げていた。大塚さんと僕はそれを支えたのだった。
「太陽の王子」公開から30年以上たった西暦2000年に、パクさんの発案で「太陽の王子」関係者の集まりが行われた。当時の会社の責任者、重役たち、会社と現場との板挟みに苦しんだ中間管理職の人々、制作進行、作画スタッフ、背景、トレース彩色の女性たち、技術科、撮影、録音、編集の各スタッフがたくさん集まってくれた。もういまはないゼロックスの職場の懐かしい人々の顔も混じっていた。
偉い人たちが「あの頃は一番面白かったなあ」と言ってくれた。「太陽の王子」の興行はふるわなかったが、もう誰もそんなことを気にしていなかった。
パクさん、僕らは精いっぱい、あのとき生きたんだ。
ひざを折らなかったパクさんの姿勢は僕らのものだったんだ。
ありがとうパクさん。
55年前に、あの雨上がりのバス停で声をかけてくれたパクさんのことを忘れない。

https://digital.asahi.com/articles/ASL5H5VLDL5HUTIL04T.html?iref=com_favorite_02