自由に・・・

イチロー、もう自由にやり」
今月初め、一人の野球選手の去就にまつわるニュースが世界を駆け巡った。米大リーグ・マリナーズイチローオリックス・ブルーウェーブ時代からのオリックスファンとして、長く彼を見守ってきた小沢直子さんの目には何が映ったのか。
イチローは今月初め、今季の試合には出ず、会長付特別補佐に就くことを明かした
「楽しそうでしたね。もしかしたらもう試合には出ないかもしれへんけど、いつまでもユニホームを着てひたすら打撃を極める。そのことに、ほんまにワクワクしているんやろなって。テレビに向かって言いました。『自由にやり』って」
オリックスファンになったのは1991年。神戸の女子高1年生でした。92年のジュニアオールスター(当時)で、初めて鈴木一朗、今のイチローを見ました。『2軍にすごい子がおる』といううわさはあったけど、いきなり代打本塁打ですよ。『えらい子が出てきた』と感動しました」
「選手寮まで『追っかけ』もしました。寮から出てきたイチローは、寝癖のついた頭に、よれよれのスヌーピーのTシャツ。愛想のない子でした」
「常連ファンのおっちゃんらと食事に行ったときも本人はほとんどしゃべらず、『機嫌悪いんかな?』と思いました。でも、時間がたつうち、ただの人見知りで素朴な選手なんや、と徐々にわかってきました」
「女性だけの応援団『関西雨天中止』を結成したのは94年。イチローが年間最多安打プロ野球記録(当時)を出した年です。『新庄(剛志)や、亀山(努)や』と騒いでいた阪神ファンの女の子たちも、急に『イチロー!』って。私も球場でトランペット吹きまくり。チームもそこそこ強くて、ほんま楽しかった」
1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きた
「大学1年でした。実家は全壊し、避難生活を送りました。それでも球場には通いましたが、道すがら、ぽっかり空いた更地を見ては『誰の家やったんやろ』、道端の花束を見れば『ここで誰か亡くならはったんかな』とつらかった。ただ、球場へ行けば『がんばろうKOBE』の袖章をつけた選手たちが活躍し、チームは快進撃。スタンドの『イチロー』コールは、日に日に大きくなっていきました。いつもの球場の右翼席だけが、現実を忘れられる場所でした」
「あの年、イチローに、オリックスに、私たち神戸っ子はどんだけ勇気づけられたやろ……って。倒壊した阪神高速、炎上する長田の市場。打ちまくるイチロー歓喜のスタンド。ほんまに同じ年の出来事やったんかなあ、と思います」
「翌96年、イチローはサヨナラ安打で、リーグ連覇を決めます。彼、飛び上がって喜んでましたね。でも無邪気に喜ぶ彼の姿を見たのは、あれが最後だったような気がします」
神戸のスターが全国区に。イチローを取り巻く環境も変化していった
「記録を塗り替え、実績を積むたび、野球の求道者、グラウンドの哲学者として神格化される。一方で『カッコつけんな』『増長している』といわれなき批判も浴びる。だんだん殻に閉じこもるようになった」
イチローは変わらず目の前にいたけれど、楽しそうには見えなかった。常にイライラして、客席からのヤジに怒り、ボールをフェンスに投げつけたこともありました。ともに震災を乗り越え、優勝を喜び合った時のイチローはもういなかった。『大リーグ行きたいんやろ、はよ行きや』というのが正直な気持ちでした」
「だから、米国に渡ってからの活躍は、もちろんうれしかった。でも、本人には楽しさと一緒に苦しさもあったと思う。『イチローすごい』が『日本人すごい』になり、両肩に『国家』が乗っかってくる。求められているのはワクワクするプレーなのか、すごい日本人像なのか。ずっと、本人にしかわからない思いがあったんとちゃうかな」
「帰ってこい、とは言いません。帰ったらまた記録とか優勝とか、いろんなものを背負わされそうやし」 だから、本人にはこんな言葉をかけたいと思う
「米国で気ままに現役生活を続けてな。これからはもう何にも背負わず、素直に自分を出していったらええねんで。神戸が一番つらいときに、全力のプレーで元気や勇気をくれた。そのことだけで、十分やから」

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