回顧

49歳になりました。思い立ってこの49年間の回顧を・・・。

  • 昭和36年3月22日、大阪市浪速区の愛染橋病院で生を受ける。

私が生まれた頃父母は(今は母校の日本橋中学のグラウンドになっている)関谷公園のバラック(市営住宅)に住んでいたそうですが、その頃の記憶はまったくありません。トコトコ歩いて近所のおばちゃんちに遊びに行っていたそうです。

  • 昭和42年4月大阪市立日東小学校に入学。

この頃は勉強はできて6年間学級委員を務めるなど「ええ子ちゃん」でしたがひ弱でいじめられっ子でした。1・2年の担任は森安先生、3・4年は今川先生、5年が工藤先生で6年が大橋先生。

日東小・日本橋小・恵美小の3校から進んでくるのですが相変わらずいじめられっ子でした。担任は3年間体育の北田先生。

  • 昭和51年4月大阪府立阪南高校入学。

私立の併願は桃山学院高校でした、願書を出しに行った日にガッコの中に土俵を発見してびっくり。
さすがに高校にもなったらもういじめられることはないやろ、とのんきに入学しましたがけっこうハードで「大学の受験資格を得るための3年間」と割り切っていたことを思い出しました。
以前も書きましたが2年のときの担任が物理の石本先生。「この人のあとを付いていこう」と一生が決まってしまいました。

  • 昭和54年3月阪南高校卒業

受験した私立大学はすべて不合格。共通一次元年の点数は702点で第1志望の京大理学部はもちろん不合格。そうして昭和55年3月まで自宅浪人。夏に京都二条城横の駿台の夏期講習行くも隣の席の女の子と映画見に行ったり遊びほうける。その結果共通一次の点数が伸びず750点台。

島大ではSF研創設に関わる、創設メンバーは久保さん・上杉さん・クマ・トビ氏などが。
1年前期は仮面浪人するも、両親の反対にあい卒業を目指すことに。ただ、仮面浪人中学コンで「実力十分」を取ったことは今も(小さく、心の中で)自慢。
1年時は数えるほどしか単位を取れず、2・3年で授業を受けまくりなんとか卒業単位をそろえる。ただし「1つの優より3つの可」
4年後期に運命の人と巡り会うが1年とたたず別れる。

1次は行ったモン順の座席でちょっとビックリ。2次はとにかく暑かった。面接は「大阪で」と思ってスーツをお実家においたままだったのですが島大教育学部で、という通知が来て送ってもらいました。面接のあと、上に書いた運命の人との初デート。佐野元春の「No Damage」というフィルムコンサートに行きました。

ひょんなことから山岳スキー部(通称「山スキ」)顧問になり、高畑シープさんと出会う。この年は38期2年6・7・8組の「基礎解析」と3年選択の「数II」2講座を担当。2−7には山スキマネージャーのMさんとノルディック男子のM下くん。2−8にはのちのインターハイ選手ノルディック女子のN原さんがいました。
昭和60年は初めての担任。40期1−7でした。
昭和61年は40期2−3を担任。メモリアルクラスです。みんなで作り上げた『蒲田行進曲』は今でも心の中の勲章です。
昭和62年は40期3−1を担任、ホントなら2Fに11クラスの教室が並ぶのですが、生徒の急増期で教室が足らず3−1だけ3Fでした。このとき隣の2−1担任が数学のS田センセ、前の年にO村センセと一緒に加納からやって来て、いろいろ教えてもらいました。
昭和63年は担任なしで自主活係、生徒会顧問みたいなことをやってました。

  • 平成元年4月大阪府立平野高校に転勤

狂乱の3年間でした。ここで今の奥さんと出会いました。

  • 平成4年4月大阪府立池島高校に転勤

先日なくなった池島高校です。いろんな思い出があります、1996年(平成8年)に生徒会やったときがいちばん面白かったなあ。

最初の2年は進路で。1年目は公務員担当、2年目は指定校・公務員・専門学校の担当。
次の3年間は56期の担任、というかMさんの担任でした。次の3年間は生徒会部長。楽しかった思い出しかありません。