『ダールグレン』途中経過

tk33082011-07-27

今日も昨日と同じように7時半ガッコ着。明日からの生指研吉野研修に備えていろんな準備をしてから、『ダールグレン』へ。30年以上前、朝倉さんだったか伊藤さんだったか大野万紀氏だったかが「SFスキャナー」で書いていた引っ越しのくだりにいよいよ突入。きりの良いところでやめて、続きは吉野から帰ってきてから。そうしてこんな書評が、

サミュエル・R・ディレイニー『ダールグレン』は、ようやく日本語で読めるようになったということ以外に何といっていいか、ちょっととまどう作品だ。学生時代にあの分厚いペイパーバックを買って最初の数ページをパラパラと眺め、こりゃ判らんとあきらめて以来、これを(仕事として)訳す人間がいるとは思っていなかったので、翻訳が出ると知ってからでも、あんまり信用してなかった。しかし、時代は変わって少々遅れ気味でも、ちゃんと読める形になったのは嬉しかった。
30年以上前に感じた取っつきの悪さは、いきなり文の途中から入ることもあって、日本語でも同じ。読み進めている内に気づいたのは、ここにはディレイニーらしいナイーヴさが表に出ていて、60年代の作品に見られる詩的で華麗といってもいいイメジャリーとしてのSFガジェットがない分、それが痛々しいほど感じられることだった。物語自体は60年代のヒッピー・コミューンでの体験を反映した、名前を失った男の架空都市ベローナでの経験を三人称ながら独白的なスタイルで綴ったもの。物語全体として構成はゆるく、ディレイニーは自分の経験とベローナを神話化することに失敗していると感じさせる。
しかし、ここにはディレイニーがそれまでに手にした文学的技法をすべて注ぎ込もうとした跡がそこここに見られ、それがこの作品を謎めいて魅力的なものにしている。『ダールグレン』のディレイニーは、ジョイスにもマルケスにもそしてピンチョンにさえ比肩しうる作家とはいえない。でも魅力的なディテールや仕掛けに満ちていることには違いなく、翻訳されたこととそれが読めたことで、十分ではないだろうか。

http://www.asahi-net.or.jp/~li7m-oon/thatta01/that279/tuda.htm