みんなこどもが好きだから教師になったのよ

息子は大川小の担任だった 負い目の両親に遺族は
84人が犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校の津波災害で、負い目を感じながら生きる遺族がいる。教え子を守ることができなかった、教職員の親だ。
大川小の旧校舎から15キロほど内陸の河川敷。佐々木栄朗(えいろう)さん(75)と妻の恵美さん(67)は、畑で100株の葉ボタンを育てる。
二人の次男、芳樹さんは大川小の4年生18人の担任だった。あの日、教え子13人とともに津波にのまれて亡くなった。27歳だった。
うわさでは、地震後に子どもを迎えに来た保護者に児童を引き渡す係をしていたと聞いた。だが、事実なのか確かめようがない。
東日本大震災で、大川小では児童74人とともに教職員10人が犠牲になった。児童の遺族が仙台地裁に訴えた裁判で問われているのは、教職員の判断だ。
遺族側は、学校のすぐ裏手に山があり、簡単に避難できたなどと主張。一方、石巻市側は、裏山は木が倒れるなどの危険があり、避難先に選ぶことができなかったなどと反論している。
震災の年のお盆。二人は13人の教え子の自宅を回った。「守れずに申し訳ありませんでした」。最初の家で声を絞り出し、両親に頭を下げた。ののしられても仕方ない。そう思っていると、思いがけない言葉をかけられた。
「お父さん、お母さんも、大切な芳樹先生を亡くした同じ遺族なんですよ」
次の家でも。
その次の家でも。
少し救われた気がした。
     ◇
震災後、葉ボタンを育てている河川敷で、二人は隣の畑の女性(65)と知り合った。女性は、4年生と3年生の孫2人を大川小で亡くしていた。それを知った栄朗さんは「4年生の担任の親です」と名乗った。持ち歩いていた息子のクラスの集合写真を見せると、女性の孫が写っていた。
畑仕事の合間に、お茶をのみながら世間話をするようになった。教師の遺族としての胸の内も明かした。
2012年の秋、女性から「大川小に葉ボタンを飾らせてほしい」と頼まれた。二人は驚いた。女性の夫らが約50株の葉ボタンを軽トラックに載せたとき、女性から声をかけられた。「学校へ一緒に」。気が引けて、断った。
葉ボタンは中庭のプランターに飾られた。4年生の教室があった旧校舎の2階から見える場所。数日後、二人はこっそり見に行った。「子どもたちが記念撮影で並んでいるようだ」。栄朗さんは思った。その後も毎年、二人の葉ボタンが飾られるようになった。
     ◇
13年3月、二人は生き残った教え子たちの卒業式に招かれた。亡くなった児童の遺影を抱える保護者とともに、「芳樹先生」の遺影を抱えた二人も、一緒に記念写真に納まった。
教え子の保護者らと交流を重ねるうち、教師としての息子の姿を知った。
教え子にせがまれて、兄夫婦の赤ちゃんの成長ぶりをうれしそうに話して授業が脱線したこと。子どもたちが提出する学習帳に、赤ペンで丁寧なコメントを書き込んで返していたこと。そういえば、毎日、教材や資料が入った大きな手提げカバンを持ち帰り、夜遅くまで机に向かっていた。
息子がつくっていた学級通信のタイトルは「輪(わ)」。10年4月の第1号には「教師・子どもが一つの輪になって、いろいろなことにチャレンジしていきます」と書いていた。
栄朗さんは「すべての遺族が輪になり、分け隔てなく悼みあえる。難しいことは理解していますが、いつかそんな日が来れば、亡くなった84人も喜んでくれる気がします」と語った。
判決は26日の予定だ。

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