死刑執行

最後まで謝罪なく 宮崎死刑囚「次は自分の番」
88〜89年に起きた連続幼女誘拐殺害事件の宮崎勤死刑囚(45)に対する死刑が17日、執行された。事件発生から20年。社会が受けた衝撃の大きさとは裏腹に、本人は公判でも最後までひとごとのようだった。刑による死を迎えた宮崎死刑囚は、その重い罪と向き合えたのだろうか。宮崎勤死刑囚の弁護側は再審請求を準備中で、5月30日付でその旨を法務省側に伝えていた。鳩山法相は「再審準備をしているという書面は届いているが、具体的な再審請求があったわけでも、具体的な再審事由が来ているわけでもない」と述べた。裁判や面会で宮崎死刑囚にかかわってきた人たちは、死刑確定から2年後という早い執行に衝撃を受けた。死刑に反対する東京都内の大学の男性非常勤講師は5月27日、宮崎死刑囚と接見した。めがねをかけた宮崎死刑囚は無表情で、ふっくらとしていたが、逮捕時より髪の毛は薄くなっていた。過去6回の接見と同じで、宮崎死刑囚が口にする言葉は、ほとんどが「うん」と「はい」だった。この日は「(他の死刑廃止運動の人たちから)連絡がない。どうしているのか」「本があるので、帰りに受け取ってほしい」と話した。接見は17分間。最後に宮崎死刑囚は「今度、いつ来ますか」と男性に尋ねた。男性が急いでいるのかと聞くと、「そうではない」。男性は、6月中に再び来ると伝えた。宮崎死刑囚は何も言わなかった。そして立ち上がり、部屋を出て行った。受け取る本はこの日、間に合わず、次回の接見で受け取ることになっていた。宮崎死刑囚は裁判の話よりも、マンガの差し入れの方に関心を示していた。「自分が置かれている状況を最後まで認識していなかったのではないか」一方で宮崎死刑囚は昨年6〜9月、計4回にわたって複数の弁護士に手紙を出していた。「○○死刑囚の二の舞いにならないように、再審請求の代理人になってほしい」「次は、自分の番だ。名前を借りるだけでもいいので、恩赦代理人になってほしい」などと恩赦や再審請求を求めるものだったという。
宮崎死刑囚と何度も面会し、数百通の手紙をやりとりしてきた月刊「創」の編集長、篠田博之さんは「まさかこんなに早いとは。本人も予想していなかっただろう」と話した。宮崎死刑囚からの手紙は、食べたものや聞いたラジオなど近況報告がほとんどだった。最後に面会したのは07年3月。「以前から幼児を殺害した理由として『祖父をよみがえらせるためだった』と話していたが、一貫して変わらなかった。自分が犯した罪と死刑確定という状況をどこまで理解していたか疑問だ」宮崎死刑囚は幻聴がひどくなっていた。篠田さんに「えたいのしれない人間が襲いに来る」と訴えたという。「絞首刑は残酷だから別の方法に変えるべきだ」と言うこともあった。宮崎死刑囚は最後まで事件への反省や遺族への謝罪の気持ちを表さなかった。篠田さんは「罪を償わせるという死刑本来の機能が不全になっている。ただ、宮崎勤という人間を抹殺したにすぎない」と指摘する。

http://www.asahi.com/national/update/0617/TKY200806170289.html

事件から20年、そちらの方に愕然としました。あれからもう20年もたったのに日本はあいかわらずです。