あと1ヶ月

避難所新聞の高校生編集長、先生に 当時の新聞使い授業
阪神大震災のとき避難所になった神戸市の小学校で、子どもたちは被災者に配る新聞を書き続けた。「編集長」を務めた高校生は今、近くの小学校の先生になった。16日、当時の新聞を初めて使い、授業で体験を伝えた。震災のとき、小学校は避難所になったんだよ――。
自衛隊でおにぎりを作っています。午前11時ごろ放送をしますので、みなさん作るのを手伝ってください」(1月26日)
「3階の南のトイレだけ水洗になりました。1・2階の北トイレはバケツリレーが大変なので使用禁止です」(1月28日)
B4判の紙に、手書きの文字とイラストが並ぶ。
「小野柄(おのえ)小学校避難所新聞」。中央区の市立小野柄小学校(現中央小学校)で、震災3日後の1995年1月20日から、避難所が閉鎖された7月下旬まで、86号発行された。避難した小学生の高学年が取材と執筆を、低学年が配布を担当。編集長として約20人をまとめたのが、卒業生で当時高校1年だった中嶋早苗さん(36)だ。
JR三ノ宮駅の東約500メートル。市街地の真ん中にあった小野柄小には震災直後、3階建ての校舎に約2千人が詰めかけた。
中嶋さんも両親と弟たち、祖父母の計8人で避難。校舎も校庭も人で埋まった。食料も水も不足。明日への不安から酒をあおる人や、わずかな食料をめぐって配給役の教員らにくってかかる人も。避難所の秩序を保とうと、物資の配布方法や水が使えないトイレの使用法などを知らせるために配られたのが、避難所新聞だった。
1、2号は教員がワープロで作成。だが物資の受け入れや電話対応で手いっぱいだった教員をみかねて、元PTA役員の中嶋さんの母親が、3号以降の発行を子どもたちに持ちかけた。
授業は中止、校庭も避難者の車で埋まり、暇をもてあましていた子どもたちは、職員室の印刷機の横に陣取り、新聞づくりを始めた。生活情報のほか、避難所にいる足が不自由なお年寄りを調べた結果や、仮設風呂の設置にきた自衛隊員のインタビューなど、自主的に取材した記事も。
「トイレのルールを守れてない人がいます。掃除する人が大変なんです」。時には大人への率直な怒りを書き込むこともあった。
小さい子と遊ぶのが好きで、将来の夢は「小学校の先生」だった中嶋さんは「みんな絵描くの好きやろ? 私たちが作るんだからかわいくしよ」と呼びかけ、イラストをちりばめた。配りに行くとお年寄りたちは破顔し、「ありがとう」の言葉にさらに張り切った。
「新聞作りはただただ楽しい時間だった」という中嶋さんは、住んでいた市営住宅に戻った後も編集長として避難所に通い続けた。
震災後、港湾関係の父の仕事が激減。バスケットボールの特待生として入った私立高校では、遠征費が払えず部活から足が遠のいた。母とパチンコ店で清掃のアルバイトをし、生計を支えた。楽しかった新聞作りの記憶が、教師への思いを強くしてくれた。大学で教員免許を取得後、7年間臨時講師を続け、30歳でやっと採用試験に合格した。
避難所で住民代表を務めた中嶋さんの祖父が亡くなったのはその頃だ。本棚から茶封筒に入った避難所新聞の束が出てきた。「まさか全部とっておいてくれるなんて……」。いつか授業で伝えたい。茶封筒のまま、教室のキャビネットにしまっておいた。
3年前、市立なぎさ小学校に赴任した。当時の小野柄小の隣の校区。震災後に建てられた復興公営住宅が林立するHAT神戸にある。「神戸の人の頑張りの上にこの街ができていることをしっかり伝えなくては」と感じる。
16日の授業では、担任をしている4年生のクラスで新聞の実物を配り、震災当時、子どもたちが書き続けたことを紹介した。「なんでやと思う?」との問いかけに、子どもたちからは次々手が挙がった。「大人たちは忙しそうだから」「家がつぶれた人を励ますため」「みんなに笑顔になってほしいから」
中嶋さんは応じた。
「そう。小学生だって、人のためにできることはあるんやで」
■小野柄小避難所新聞の主な記事
第3号(1月22日) 援助物資がどこからきているかの調査結果
第5号(1月24日) トイレの水をプールから運ぶバケツリレーの時間のお知らせ
第12号(1月31日) 自衛隊が設置した仮設風呂のマナーや感想
第57号(3月25日) 避難所住民から小野柄小を卒業する6年生へお祝い金
号外(4月17日) 16日にあった橋幸夫さんらのチャリティーコンサートの感想
第86号(7月29日) 避難所新聞最終号、編集後記

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